花と珈琲

 

昨年の10月、子どもが生まれるのと同時に珈琲豆の焙煎をはじめて

 

今年の3月、はじめて対価をもらって珈琲豆を販売しました。

 

「山」・「谷」と題した、2種類だけだった珈琲豆はいまは8種類になり

 

この12月は新作の珈琲豆「花」のリリース記念に、「花と珈琲」という珈琲豆と花束のセットの予約販売を行いました。

 

いま、その準備の真っ最中です。

 

 

花に触れる機会が増え、花のことを考える時間も増え、花のもつ力というものを実感する毎日です。

 

『祝いの時も不幸の時も贈ることができるのは「生花」と「フルーツ」だけ。』という文章を読み、

そういうものを扱う仕事は素晴らしくいいな、とうらやましく思いました。

珈琲豆も果実といえば果実ですが、ちょっと違いますよね。

 

 

いつから珈琲を好きになったのか、よく覚えていません。

 

いつの間にか人の庭に勝手に居着いたノラ猫みたいに

 

気づけば日常に溶け込んでいました。

 

どうして好きなのかも、よくわかりません。

 

地球にはじめてきた宇宙人に、なにか美味しい飲み物ちょうだい

 

と言われて珈琲出したら、殴られるかもよ?

 

とある有名な焙煎士の方が仰られていましたが、僕もそう思います。

 

生搾りオレンジジュースの方がいいでしょう。

 

そう思いながら、僕は毎朝珈琲を飲みます。

 

飲まない日は非日常と言えるほど、僕の日常に溶け込んだ珈琲。

 

 

 

先月、11月の終わり。母方の祖母が末期の肝臓がんであることを知らされました。

 

もう年は越せないかもしれないと言われ、翌週の12月はじめに1歳の息子を抱え2人で会いにいきました。

 

1日中眠って意識がない日もあるから、来てもらっても徒労に終わるかもかもしれないとのことでしたが

 

子どもが生まれてまもなく、世の中はこんな状況になって

 

祖母は施設に入っていたため面会制限があり、一度も会わせる機会がありませんでした。

 

緩和ケア病棟に移ったいま、1日3名まで。時間は30分。それが僕たちに与えられた最後の機会でした。

 

ほとんど眠っていましたがほんの少しだけ起きて、息子の顔をみてはっきり「かわいい」と言って、笑顔をみせてくれました。

 

用意した花束を見れたかはわかりませんが、殺風景だった病室に彩りが加わりました。

次に起きたとき気づいてもらえるよう、ベッドの隣に花を置き、家路に着いて

 

僕はその日の朝も珈琲を飲み

 

帰宅してからも珈琲を飲みました。

 

味は変わらない。

 

 

 

そして3日前、祖母は亡くなりました。

 

急きょ店を閉め、家族で実家へ。

 

親族だけのささやかな葬儀の中

 

僕は祖母を包む花々を美しいと思い

 

通夜が明けた朝も珈琲を飲んでおいしいと思い

 

葬儀が終わり京都に戻って、花と珈琲を用意する準備をしながら

 

 

花を美しい、珈琲をおいしいと思えるうちは

 

僕は大丈夫だろう、と思いました。

 

そんな風に人々の日常に溶け込み支えているものは、きっとたくさんあります。

 

それは家の灯りだったり

 

カレーの匂いだったり

 

猫のお腹だったり

 

 

そういうものがひとつでも残っていれば、前を向いて生きていける。そんな気がします。

 

この珈琲豆もいつか、誰かにとってありふれた日常のひとつになれるよう

 

祝いのときも不幸のときも、変わらず飲めるものであれるよう

 

からだが動く限り、つくり続けたいと思います。

 

自分と、家族のために。